「與一の大きな愛に包まれる」

 八田は、1942年5月8日にフィリピンへ向かう大洋丸に乗船していた際、米軍の魚雷攻撃を受けて亡くなった。脱出できなかった700人以上の優秀な乗組員が君が代を斉唱しながら、船は沈没したとのことである。烏山頭ダムのほとりには、ダムと平野を見わたす位置に八田の銅像がある。

 銅像の後ろの御影石のお墓には、與一と、3年後に與一の後を追ってダムの放水路に身投げした妻の外代樹が眠っている。この近くにある殉工碑には、工事で亡くなった人々だけでなく、工事関係者の家族の名前も刻されている。

 8人の子を育てた外代樹の銅像が、烏山頭ダム近くの八田與一記念館のそばにあった。この像に近づいたとき、筆者は自然に涙がこぼれた。さらに、烏山頭ダムの堤体を歩いた後、ダムのほとりの與一の像に近づくときに、與一の大きな愛に包まれる感じで涙があふれた。

 八田は、台湾の人々のために技術者として命をささげた。彼が本当に大切に思っていたのは、「人」だったのだと思う。土木事業も資産であるが、人こそが最も大切な資産であることを八田は分かっていたのだろう。