転機は事故から約2週間後の会議


2011年3月に発生した未曾有の原発事故。その直後から、東京電力の依頼を受けた大手ゼネコン数社が事故の収束に向けて対策を練り始めた。1号機原子炉建屋を“カバー”ですっぽりと覆い、放射性物質の拡散を防止する任務を引き受けたのは清水建設だ(以下、敬称略。肩書きや組織名は2011年12月時点)。

 「そんなことが、本当に実現可能なのか」。提出されたプランに対して、会議の出席者らは一様に懐疑的だった。

 東日本大震災の衝撃も覚めやらぬ2011年3月28日のこと。スーパーゼネコンの一角を占める清水建設では宮本洋一社長出席の下、東京電力への提案内容について熱心に議論が交わされていた。

 議題はほかでもない、同年3月12日午後3時36分に水素爆発を起こした1号機原子炉建屋を、テントのような仮設のカバーですっぽりと覆い、放射性物質の飛散を抑制する緊急プロジェクトである。現場の状況把握すらままならないなか、東京電力は清水建設に、カバーの建設計画の提案を依頼していた。

水素爆発後の1号機原子炉建屋。2011年3月12日に建屋の北西側から撮影(写真:東京電力ホールディングス)
水素爆発後の1号機原子炉建屋。2011年3月12日に建屋の北西側から撮影(写真:東京電力ホールディングス)
[画像のクリックで拡大表示]

 清水建設の手で同年10月に完成し、後に同社によって解体されることになる「建屋カバー」は、南北に46.9m、東西に42.3mの平面を有し、地上からの高さは54.4mに達する鉄骨造の巨大な構造物だ。

 四隅の柱とそれらをつなぐ3、4段(合計13本)の梁、クリーム色の膜材を張り付けた壁・屋根パネルなどから成る。建設後5年間にわたって原子炉建屋を覆うことになるのだが、この会議のころには、まだ影も形も存在しなかった。

ほぼ完成した1号機原子炉建屋のカバー。2011年10月14日に撮影(写真:東京電力ホールディングス)
ほぼ完成した1号機原子炉建屋のカバー。2011年10月14日に撮影(写真:東京電力ホールディングス)
[画像のクリックで拡大表示]

 なにしろ1号機原子炉建屋の周辺には、津波と地震、そして水素爆発の影響で、車や建物の残骸があふれかえっている。さらには、毎時数十ミリシーベルトという極めて高い放射線量が計測されていた。人が容易に近づけない現場で、どのようにして巨大な構造物を建設すればいいというのか――。

 会議の席上、建設計画の立案を任されていた生産技術本部の印藤正裕本部長が披露して出席者を驚かせたのは、溶接やボルト締めを一切用いず、離れた位置からクレーンで吊り込んだ柱と梁をかみ合わせるだけで接合するという「常識破り」のプランだった。