「娘も、もう大学生なんですよ」。ほんの数日前、東京への出張がてらにひょっこり訪ねてくれた旧知のO氏は、目を細めて言った。私と同い年のO氏は、首都圏育ちながら関西の鉄道会社に車両デザイナーとして就職し、以来ずっと在阪。娘さんは1995年、阪神大震災が起こった年に生まれた。

 1990年代前半、当時所属していたデザイン誌編集部での仕事を通じて知り合ったO氏は、最初から妙に“ウマ”が合い、今でも私にとって気が置けない友人の一人。震災発生から半年ほど経過した頃、取材の一環で被災地に足を踏み入れたときも、O氏が案内役を引き受けてくれた。発生から少し時間が過ぎた時期ではあったが、私にとっては生まれて初めて訪れた大災害の現場だった。

 O氏が住んでいた社宅からほど近い神戸市長田区の被災エリアに立ったときの光景は、今でも鮮明に覚えている。巨人に握りつぶされたかのような壊れ方をした木造住宅。焼けただれて鉄骨がむき出しで残ったビル。がれきが取り除かれてぽっかりと空いた一画の道端に、ぽつんと放置されていた小さな三輪車。「持ち主の子供は無事だったのだろうか…」。平凡で当たり前と思っている日常生活が一瞬にして崩れ去る脆さに、恐れと無力感を感じるしかなかった。

 このとき現地を訪ねたのは、震災直後から動き出していたデザイン研究者やデザイナーたちの活動を取材するためだった。当時、芸術工学会の研究者や日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)のメンバーなど、地元のデザイン関係者の間では、未曾有の災害から何かを学び取ろうとする動きが活発化していた。同じ年の夏、製造物責任法(PL法)が施行され、デザインの分野でもモノや空間の「安全」、「危険回避」といった与件にどう取り組むべきか、議論の気運が高まっていた。そうした背景もあり、「震災から学ぶ」という地元デザイン関係者たちの取り組みにも注目が集まっていた。

 下はその時の記事誌面の一部だ。電子編集化以前の写植時代のため、社内で残るのは製本したバックナンバーだけ。見にくさは、どうかご容赦いただきたい。左ページの左上に小さく載っているのが、取材時に撮影した長田区の様子だ。カメラを向けるのがはばかられる思いがして、あまりカット数を撮らなかったことを憶えている。

日経デザイン1995年9月号特集「PL法時代のデザイン」から。続きは次のページに(資料:日経デザイン)
日経デザイン1995年9月号特集「PL法時代のデザイン」から。続きは次のページに(資料:日経デザイン)