今年1月17日、阪神大震災から20年となる。

 個人的な体験に過ぎないが、震災時の記憶を風化させないために、この場を借りて記録を残しておきたい。

 あの日、JR芦屋駅から東に10分ほどの木造2階建てアパートの1階に、身重の妻と2人で住んでいた。国道2号線と阪急電車に挟まれた、西宮との市境。震度7の激震地だ。

 確か成人の日の振替休日の翌火曜日だったと思う。成人の日には妻と一緒に、神戸・三宮に遊びに出かけていた。西宮で生まれ育った身としては、神戸は勝手知ったる地元だ。いつも行くセンター街の先のドンクの2階席で、たくさんの振袖姿を見下ろしながら、サンドイッチを食べたのを覚えている。

震災直後のJR三ノ宮駅前の神戸交通センタービル。鉄骨鉄筋コンクリート造の9階建ての建物で、5階部分が完全に層崩壊、6階以上の上層階が北側に4%傾いた(写真:日経アーキテクチュア)
震災直後のJR三ノ宮駅前の神戸交通センタービル。鉄骨鉄筋コンクリート造の9階建ての建物で、5階部分が完全に層崩壊、6階以上の上層階が北側に4%傾いた(写真:日経アーキテクチュア)

 ぐっすり寝ていたら突然、突き上げるような揺れに飛び起きた。実際はベッドに乗ったまま全く動けなかったのだが。気が付いたら、部屋の隅にあったクィーンサイズのベッドが真ん中まで動いていた。何が何だかわからずリビング・ダイニングに行ったら、食器棚が倒れてガラスが散乱し、巨大なブラウン管テレビが床に転がっていた。カーテンを開けたら、東の空に黒煙が上がっていた。

 外に出ると、たくさんの人がパジャマ姿で不安そうに立ちすくんでいた。隣のマンションがいつもと違うな、と思ったら、2階から3階がへしゃげて傾いていた。道路は大きく波打っている。当時は携帯電話が普及する前だったから、カーラジオで地震があったことを知った。ABCラジオ「おはようパーソナリティ」の道上洋三さんがラジオから懸命に話しかけていた。

 余震があるから家に入るのも怖くて、寒さに震えながら外にいた。こんな大変な状況なのに、スーツ姿のサラリーマンがゴミ袋を傾いた電柱の脇に置いて、駅の方に歩いていくのを見て驚いた。明るくなってきたら、周りのなにもかもの垂直・水平がゆがんでいた。火事があちこちで起きている。でも消防車は来ない。記憶に残っているのは、やたら聞こえたヘリコプターの音だけだ。

神戸市役所旧庁舎(第2庁舎)。1957年完成。水道局などが入っていた6階部分が層崩壊した(写真:日経アーキテクチュア)
神戸市役所旧庁舎(第2庁舎)。1957年完成。水道局などが入っていた6階部分が層崩壊した(写真:日経アーキテクチュア)

神戸市役所旧庁舎を北側から見る(写真:日経アーキテクチュア)
神戸市役所旧庁舎を北側から見る(写真:日経アーキテクチュア)

 それから数日間は配水車に並んだり、トイレの排水のために池に水を汲みに行ったり、冷蔵庫の中身で食べつないだり、いろいろあったのだがよく覚えていない。2週間くらいたって、ようやく西宮北口駅まで通じた阪急電車に乗って大阪の友達の家にたどり着き、久しぶりに風呂に入らせてもらった。

 阪神間はえらいことになっているのに、大阪・梅田の街はいつも通り。なんだか無性に腹を立てながら、阪急三番街のKYKでトンカツ定食を食べた。

 妬ましい、羨ましいと思う一方で、「これなら何とかなる」とも感じた。普通の生活を送っている人たちが、自分たち被災者を必ず助けてくれるはずだと。

 震災後の3月に生まれた息子は、今年で20歳になる。阪神大震災と同じ歩みだ。あの日はまだお腹の中にいたので震災を知らない。息子より年下の子どもたちも震災を知らない。震災を知る人が増えるのは嫌だが、震災を忘れるのはもっと嫌だ。

 阪神大震災からもう20年もたってしまった。慣れ親しんだ街も姿を大きく変えてしまった。しかし、震災の教訓は決して忘れてはならないと思う。体験は語り継いでいかなければならないと思う。

 阪神大震災で亡くなられた6434人のご冥福をお祈りします。

都市直下型地震が直撃し、壊滅的な被害を受けた震災直後の神戸市中心部の三宮地区。震災から20年がたち、神戸は復興を遂げて姿を大きく変えている(写真:日経アーキテクチュア)
都市直下型地震が直撃し、壊滅的な被害を受けた震災直後の神戸市中心部の三宮地区。震災から20年がたち、神戸は復興を遂げて姿を大きく変えている(写真:日経アーキテクチュア)