個別の建物を扱う「点のリノベーション」から、それらを連鎖させてエリアを活性化に導く「面のリノベーション」へ、目覚ましい進展が始まっている。“リノベーション第一世代”として実績を積み重ねてきた馬場正尊氏、リノベーションまちづくりの先導プロジェクトの担い手である嶋田洋平氏に、その現在を語り合ってもらう。
※嶋田洋平氏が、著者の一人および企画・監修側(HEAD研究会フロンティアタスクフォース)として関わっている新刊『2025年の建築「七つの予言」』を日経BP社より発行しました。内容、目次等はこちら(Amazon)をご参照ください。
空間のリノベーションによって 様々な社会事象を変えていける
嶋田 馬場さんとの出会いは『POST OFFICE―ワークスペース改造計画』(TOTO出版、2006年)です。当時、僕はみかんぐみのチーフとしてこの本の著者にも加えていただいて、とてもいい経験をさせていただきました。
馬場 まだリノベーションという単語が一般化される前でしたが、僕としては“オフィス空間のリノベーション”というイメージでこの本をつくっていました。
嶋田 空間のデザインがどうかというよりも、人の意識や働き方の価値観がどう変わっていくかという根本的なところから、馬場さんや著者の皆さんが議論していたんです。テクノロジーの発達によって可能になる働き方とか。今やっていることとつながっていますね。
馬場 そうですね。空間を変えることによって色々な発想が生まれたり、まず新しい空間を提示することによって価値観を変えたり、そんなことができるんじゃないかと考えていたんです。
嶋田 馬場さんと久しぶりに再会したのは、(改修直後の)『マルヤガーデンズ』(鹿児島市、2010年)で開催されたリノベ―ション・シンポジウム@鹿児島。僕はみかんぐみを辞めようとしていたタイミングでした。
ちょうど同時期に、北九州市小倉で僕が最初にリノベーションに関わることになる中屋ビルも空き家になった。鹿児島といい北九州といい、地方の中心部で大きい商業施設だった建物が次々と空き家になる事態が起こっているんじゃないか、と感じていました。
馬場 リーマン・ショックの後ですね。
嶋田 マルヤガーデンズのプロジェクトには、山崎亮さんやナガオカケンメイさんが関わっていました。床を増やしてもテナントに貸すのではなく、地域で活動する人たちの拠点をつくることでデパートに人を呼ぶというプランです。
山崎さんが、日本の人口が今後どんどん減っていくというお話をされていて、当時の僕は衝撃を受けました。小学校の時、世界の人口は増え続けると習ったから、日本の人口も増え続けると信じていたんです。みかんぐみ時代は会社もどんどん成長していたし、目の前に降ってくる華やかな仕事に夢中になっていて、日本の社会がどうなっていくかということに無頓着だったんですね。
馬場 僕らが新築だけではなく、リノベーションという方法論もあるのではないかと意識的に取り組み始めたのは、2003年です。Open Aや東京R不動産ができたのも2003年、ブルースタジオもほぼ同時期。先の見通しがあったわけではありませんが、オフィスが供給過多になる「2003年問題」が言われていましたし、2004年をピークに人口が減少に転じ、建物が余り始める。つまりパラダイムシフトが起こることは分かっていた。建築家の仕事が今までと同じであるはずはない、ということは本能的に感じていたと思います。
そういう意味で、僕らはリノベーション第一世代として古い建物の再生に取り組み始めました。でもデザインだけでは解決できない、ファイナンスや制度の壁にぶち当たることがあまりにも多かった。こんなに未整備なのかという状況を目の当たりにしながら、小さな空間のリノベーションばかりやっていたわけですが、その時はまだ個別の建物や空間といった「点」にすぎませんでした。ところが丁度マルヤガーデンズの頃、大きな建物が大きな資本で大規模にリノベーションされる時期が到来したんです。
僕はこの時期に『TABLOID』(東京・港区、2010年)を手がけていました。その中で、個別の建物のリノベーションがエリアを変える社会的なインパクトを持つ、エリアのキャラクターを変える決定的なトリガーになるということが見えてきたんです。
リノベーションはもはや単に建物の改修ではなく、それを入り口としてエリアを変えていくことであり、もしかしたら法律のあり方や、ファイナンスのつき方をも変えていくことであるかもしれない。空間を変えることによって、そこから変えていける様々な事象があるんだと、ハッキリ気がついたのがその頃でした。