先行開業した富士吉田線が本線のはずだった

 情勢の急変をよそに、東京-富士吉田の区間は高井戸IC(インターチェンジ)-河口湖ICとして、既に工事が進んでいた。中央道として最も早く69年までに、都心部を除いて完成。うち大月JCT(ジャンクション)-河口湖ICの区間は、ルート変更後、中央道富士吉田線と名称を変えた。

 甲府・諏訪経由の新たな本線は、全線開通が1982年までずれ込んだ。山梨県内では、甲府市街地の北を通すか南を通すかで意見が分かれ、勝沼IC-甲府昭和ICが最後の開通区間となった。結局、南部を経由した。

 それにしても、変更案が突如示された63年の総会は何だったのか。ルート変更で利益を得る側が水面下で調整を図ったのだろうか。

 ひるがえってリニア新幹線のルート問題。中央道建設における意見の対立と似た構図が今、生じている。2つ以上のルートが候補となれば、経由地同士で誘致合戦になるのは、ある意味では当然といえる。しかし、国家的なプロジェクトでは大局に立った判断が必要だ。

 ルートの問題は、その交通手段が存在し続ける間ずっと経由地に影響を与える。中央道での経験をリニア新幹線にも生かしていくことが求められる。

※文中敬称略