総会で委員長が突如、迂回ルートを提案

 曲折がありながらも南アルプス経由で決まった中央道の建設計画。これが覆る出来事が、1963年に起きた。

 中央道の早期着工・完成を推進するため、関係する自治体の首長などが「中央自動車道建設推進委員会」を構成していた。委員会が63年5月17日に開催した第6回総会でのことだ。長野県出身の国会議員でもあった委員長の青木一男(1889-1982年)が突如、ルートを北回りに変更する方針を明らかにした。独自の考え方として南アルプスを通らず甲府・諏訪を経由する迂回ルートだった。

突如、提案された北回り案。約60kmの迂回となる (資料:山梨県身延町「身延町誌」)
突如、提案された北回り案。約60kmの迂回となる (資料:山梨県身延町「身延町誌」)

 既に東名・名神高速の建設が進んでいた。完成すれば、中央道の「東京-大阪を結ぶ大動脈」という建設意義が薄れる。青木は、中央道の建設に当たっては工事費をいかに抑えるかが重要な要素になると唱えた。南アルプス経由は建設費が高かった。

 青木の意見に対して、山梨県の塩山(現・甲州市)市長や韮崎市長、長野県の駒ケ根市長など、ルート変更で新たに経由地となる自治体の首長が次々に賛成した。ただ一人反対したのが、当初案なら経由地となる身延町で町長を務めていた佐野為雄(1902-1972年)だ。山梨県知事が佐野に対し一般道整備などの見返りを提示し、説き伏せる形で総会を終えた。

 佐野は静岡県井川村を交えた周辺町村、あるいは国会議員を巻き込んで反対運動を展開した。しかし、覆った案を元に戻すことはできなかった。

 翌64年、当時の建設省の建設審議会がルート変更を決定した。6月9日に開かれた参議院建設委員会では、佐野が参考人としてルート変更に反対を訴える。しかし、委員会も本会議も変更案を可決した。

 建設委員会の議事録では後の委員長、田中一(1901-1989年)の積極的な発言が目立つ。「寝耳に水」だった佐野を前に、心情に配慮すると同時に、ルート変更の交換条件を提示してはどうかと勧めている。