
2010/12/28
国土交通省の交通政策審議会で、JR東海が計画しているリニア新幹線のルートが南アルプス経由に内定した。あてが外れたのは長野県。1989年以来、迂回(うかい)しても経済効果が見込めるとの理由で、対案の伊那谷ルートを推進してきた。これが覆った。
逆に、いったん南アルプス経由と決まったものの、後に伊那谷経由へと覆ったのが中央自動車道だ。ルート変更を巡る逆転劇があったのは半世紀前のこと。当時の記録が山梨県身延町の「身延町誌」や国会会議録検索システムなどに載っている。歴史を少し振り返ってみよう。
敗戦からの復興期、交通網整備の必要性が叫ばれた。国土を貫く高速道路を通して新たな都市と農村の建設を促進する法律「国土開発縦貫自動車道建設法」が1957年(昭和32年)の国会で成立した。超党派による議員立法だ。
中央道の建設計画は同法に基づいている。ルートは途中、静岡市北部の南アルプスを東西に貫く。経由地は、次のように決まった。
東京都−相模原市緑区(当時は相模湖町)−山梨県富士吉田市−静岡市葵区(当時は井川村)−長野県飯田市−岐阜県中津川市−愛知県小牧市−岐阜県大垣市−滋賀県大津市−京都市−大阪府吹田市 ※経由地はすべて記載地付近を指す
東京と大阪を結ぶ高速道については当時、東海道経由にすべきか南アルプス経由にすべきか、国会でも意見が分かれていた。
順当に計画すれば、東海道経由となっただろう。江戸時代に街道が整備され沿線人口も多い。南アルプスを経由する案は、実業家・政治家だった田中清一(1892−1973年)が1947年に日本政府に提出した計画を踏襲したものだ。田中は南アルプス経由であれば農地や市街地をつぶさずにすみ、林業や鉱業の発展にもつながると主張した。
一方、財界人の松永安左エ門(1875−1971年)が主宰する私設シンクタンク「産業計画会議」が1958年、東海道経由の高速道建設を政府に提案した。中央道と比べて多くの利用が見込めるだけでなく、険しい山岳部を通らないことから建設費が安いなどのメリットを挙げた。
1960年には、中央道とは別に東海道経由で高速道路の建設するための「東海道幹線自動車国道建設法」が成立。名神高速は65年に、東名高速は69年に全線開通した。
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