土木の仕事は1人では何もできない。そこに、やり甲斐や面白さがある。横浜市職員として、歴史的な橋の架け替え事業に奔走した鈴木淳司氏が実感したのも、そんな思いだ。

鈴木 淳司(すずき・あつし) 1971年東京都生まれ。日本大学生産工学部土木工学科卒業後、大日本コンサルタントを経て09年4月、横浜市に転職。13年4月から磯子土木事務所の道路係長を務める(写真:安川 千秋)
鈴木 淳司(すずき・あつし) 1971年東京都生まれ。日本大学生産工学部土木工学科卒業後、大日本コンサルタントを経て09年4月、横浜市に転職。13年4月から磯子土木事務所の道路係長を務める(写真:安川 千秋)

 100年以上も現役だった歴史的鋼橋を移設し再利用──。こうした話題で注目を集めたのが、この春、横浜市中区の新山下運河で架け替わった「霞橋」だ。

 事の発端は2009年7月、同市建設部の橋梁課長宛に舞い込んだ1通の手紙だった。差出人は、早稲田大学創造理工学部の佐々木葉教授。その内容は、既に架け替えと解体が決まっていたある橋の移設と、再利用を提案するものだった。その橋とは、横浜市鶴見区と川崎市幸区にまたがる道路橋「江ケ崎跨線橋」。元々は、明治中期に誕生した英国製プラットトラス形式の鉄道橋「隅田川橋梁」から、転用された橋だ。

 橋梁課で白羽の矢が立った担当者が、鈴木淳司氏。大手建設コンサルタント会社から市の土木技術者に転職して、まだ3カ月ほどだった。上司から「橋の再生プロジェクトに興味はないか?」と問われた鈴木氏。「難しそうですね」と答えて普段の表情を崩さなかったが、心の中ではワクワクする思いが湧き上がった。「『思い描いていたような仕事がきた!』という感じ(笑)」。鈴木氏は、当時をこう振り返る。

 鈴木氏は、市への転職前に16年間勤めた建設コンサルタント会社で、主に橋梁下部構造の設計を手掛けていた。設計者から発注者に転身した理由の一つは、「自分が主体となって、周りの人たちと協力し合いながら、個々のプロジェクトを最初から最後まで手掛けたい」という思いだった。「歴史的な橋の再生」という仕事の難しさは、技術者として直感的に分かった。だからこそ転身の動機となった思いを実現できる、という期待が膨らんだという。