「発注者にしか責任は取れない」。以前、取材でよく公共発注機関の技術者から聞かされた話です。もっと民間に任せてはどうかと問うと、そんな答えがしばしば返ってきました。今でこそ、その土木事業の設計者は誰かと尋ねれば建設コンサルタント会社の名前が挙がりますが、一昔前の1990年代には、実際に図面を描いているのが建設コンサルタント会社であっても、「発注者が設計者だ」と譲らない場面にたびたび出くわしました。なぜかと問うと、「設計の責任は発注者にしか取れないからだ」というのです。

 日常的に設計ミスが発覚し、その責任を建設コンサルタント会社に取らせている現状からすると、多くの発注者はなし崩し的に設計者であることをやめたようです。ただ、すべての責任を負わされる建設コンサルタント会社にとっては、納得がいかない面もあるようです。発注者の指示と設計ミスとの因果関係はあいまいにされがちだし、そもそも発注者は成果品をチェックしたうえで受け取ったはずだといった不満がくすぶっています。

 最近、発注者はミスに対して責任を取るのをやめたのでしょうか。そうとしか思えないような出来事が散見されるようになってきました。特に積算ミスの頻発と事後対応を見ていると、問題の根は深いと思います。

 札幌市では、4月から6月半ばまでの2カ月半に発注した工事の約5%で、入札公告の訂正がありました。東日本高速道路会社でも、発注件数のおおむね10%弱で入札公告の訂正が必要になる事態になっています。大半の訂正は積算ミスが原因です。しかも、学識者などからは、札幌市や東日本高速のようにきちんと公告を訂正する発注機関はまだましだとの声もあります。

 積算が過大だったと発注者が契約後に気づき、過大積算分の工費を減額したり、余分な工事を発注して契約額を変えずに帳尻を合わせたりといった事態も発生しています。入札前に積算ミスに気づいていても、契約後の契約変更によって過大積算分を調整したりする例さえあるようです。

 落札後、建設会社が見積もりミスを理由に契約締結を辞退すれば、「不誠実な行為」とみなされ指名停止になります。一方で、積算ミスを犯した発注者はおとがめなしとなれば、受注者側は納得できないでしょう。

 積算ミスを犯した際の責任の取り方が発注者には分からないのかもしれません。発注者は従来、無謬性(むびゅうせい)を前提にしていました。つまり、発注者はミスを犯さないという前提で公共事業の様々な仕組みが組み立てられています。

 入札談合が行われていた時代は、発注者のミスが表に出ることなく、談合システムの大枠のなかで暗黙裡に処理されていたのでしょう。以前、ある談合擁護論者が「談合をやめれば、発注者の積算ミスや技術力不足があらわになる。困るのは発注者だ」とうそぶいていましたが、あながち的外れでもなかったわけです。談合というもたれあいの構図のなかでぬるま湯につかった発注者の技術力は、水面下で徐々に損なわれていたと考えられます。

 ある意味で、発注者の無謬性は談合システムによって担保されていたわけです。発注者もミスを犯すことがあることを前提に、公共事業の様々な仕組みを再構築する必要があります。発注者の行動を規定する会計法や契約約款などでは、発注者がミスを犯した場合の対処方法が明文化されていないのです。

 7月26日の中央建設業審議会の総会で、契約当事者間の対等性の観点から公共工事標準請負契約約款の改正内容が決まりました。受発注者間の協議の段階から公正・中立な第三者(調停人)を活用し、円滑に協議が行われるように規定を新設したほか、工期延長に伴う増加費用の負担について発注者に帰責事由がある場合には発注者が費用を負担するという内容の規定も新設しました。しかし、発注者もミスを犯すことがあるという前提に立った改正は盛り込まれないようです。

 根本的な問題解決のためには、発注者責任を改めて定義する必要があります。建前と実態の乖離を放置したままでは、うまくいきません。発注者は責任を持てないものまで負おうとせず、民間に任せられるものは権限と責任を移譲することが肝要です。発注者ごとの能力にもよるのでしょうが、発注者は事業の企画や事業関係者との調整、事業の説明など、注力する仕事を明確にする必要があると思います。

 日経コンストラクション8月13日号の特集「発注者の無責任」は、以上のような問題意識から、改めて発注者責任について考えてみました。ぜひご一読ください。