設計のために9人の建築家が集結

 ホテルオークラ東京の本館は、建築家9人による共同設計の形で進められた。その中心となったのが、谷口吉郎(1904~79年)だ。

 ホテルの発起人である大倉喜七郎(1882~1963)は、大倉財閥の創始者、大倉喜八郎を父親に持ち、帝国ホテルや川奈ホテルなど数十社の社長、役員を兼ねた人物。実業家でありながら、美術や文芸、音楽、料理、ゴルフ、自動車など幅広い分野に知識を持つ、“通人”だった。戦後の財閥解体でいったんは全事業から手を引いたが、ホテル事業を終生の仕事と決め、東京都港区赤坂葵町(現在は虎ノ門2丁目)にあった旧大倉邸跡地を用地にあてた。

 大倉は1958年、自身が会長となって、ホテルオークラの前身となる大成観光を設立。翌年2月にはホテルオークラ設計委員会が発足した。委員会は、委員長を務めた谷口吉郎のほか、小坂秀雄(当時郵政省建築部長)や清水一(当時大成建設設計部長)、岩間旭(当時三菱地所建築部長)、伊藤喜三郎(当時伊藤建築研究所所長)の5人で構成された。

 当初、建物の外装は谷口が設計する予定だった。しかし、帝国劇場のような縦のマリオンを強調した谷口の外装がほかの近代建築をイメージさせ、「同一傾向では新鮮味がとぼしくなる」としてホテル側が退けた。最終的に小坂が外装を担当することになり、現在の横長のフォルムで、横の線を強調するデザインに決まった。

ホテルオークラ東京の正面玄関。全体プランは一度、設計委員会の5人全員で提案し合った末に小坂案に決まった。外装も小坂による設計(写真:吉田 誠)
ホテルオークラ東京の正面玄関。全体プランは一度、設計委員会の5人全員で提案し合った末に小坂案に決まった。外装も小坂による設計(写真:吉田 誠)

 断面を含む基本平面計画の設計が完成した時点で委員会は一度解散し、各委員に設計が分担された。全般的なデザインの調査や図面、実務的なまとめを図る役として、坂倉準三建築事務所にいた柴田陽三を大成観光の建築部長として迎え、最終的に全部で9人の建築家が設計に携わった。

 完成当時、委員などの建築家が担当していた主なパートは以下の通り(社史「ホテルオークラ二十年史」を基に記載)。

谷口吉郎……ロビー、オーキッド・ルーム、オーキッド・バー
小坂秀雄……立面意匠(外装)、平安の間、千歳の間
清水 一……和風宿泊室
伊藤喜三郎……中小宴会場
ウイリアム・シュラーガー(顧問として招請)
……客室(西洋間)、スターライト、オーク・ルーム、桃花林
柴田陽三……コンチネンタル・ルーム、エメラルド・ルーム、エメラルド・バー、カメリア・コーナー、山里
 現在、客室や宴会場などは改修した部分が多く、ロビーやメーンダイニング以外で完成当初の姿を見られる場所は少ない。

小坂が設計した大宴会場、平安の間。国際会議に使えるよう、7カ国語の同時通訳の設備などを用意。開業2年目となる1964年には、IMF(国際通貨基金)の総会がこの広間で開かれた(写真:ホテルオークラ東京)
小坂が設計した大宴会場、平安の間。国際会議に使えるよう、7カ国語の同時通訳の設備などを用意。開業2年目となる1964年には、IMF(国際通貨基金)の総会がこの広間で開かれた(写真:ホテルオークラ東京)

現在は大広間を仕切れる形に改修され、1枚だった壁画は分断された。壁画の下にある格子は京都御所の蔀(しとみ)をかたどったもの(写真:吉田 誠)
現在は大広間を仕切れる形に改修され、1枚だった壁画は分断された。壁画の下にある格子は京都御所の蔀(しとみ)をかたどったもの(写真:吉田 誠)