世界遺産に登録されている京都の龍安寺(りょうあんじ)。枯山水の庭に秘められた謎を解き明かすべく、建築・住宅ジャーナリストの細野透氏が書籍『謎深き庭 龍安寺石庭──十五の石をめぐる五十五の推理』を淡交社から出版。同書にも掲載していない新発見を5回に分けて掲載する。(編集部) [特設サイト]

石庭「5つの謎」

虎の子渡しの謎
虎の子渡しの謎
龍安寺石庭配置図
龍安寺石庭配置図

 世界遺産、京都の龍安寺に、日本庭園史に燦然と輝く枯山水の庭がある。その名は「石庭」。方丈の前面に白砂を敷き、大小15の石を5群に分けて配置した、広さ100坪の小宇宙である。

 この小宇宙には広く考えると5つの謎がある。
 1 「作者」。石庭は誰が設計したのか。
 2 「時期」。石庭はいつ、つくられたのか。
 3 「テーマ」。石庭は何をテーマに設計されたのか。
 4 「五群十五石」。5つの石組と15の石は何を意味しているのか。
 5 「秘密の構図」。石を配置するとき、どのような構図(美的秩序)に基づいたのか。

 5つの謎のうち、初期の段階では、識者の関心は「作者」と「時期」に集中した。

 まず寺を創建した武将の細川勝元、あるいは創建開山の義天玄詔が、宝徳2年(1450)に石庭を設計したとする説がある。次に勝元の嫡子・政元あるいは中興開山の特芳禅傑が、「応仁・文明の乱」が終わって龍安寺を再興した明応8年(1499)に、石庭を設計したとする説もある。細川家は代々、作庭の趣味があったとされる。また禅寺の庭園づくりにおいて、禅僧が立石を専門に行う立石僧を兼ねるのは、夢窓国師以来の習いでもある。

 ほかに足利将軍家に仕えて諸芸能をつかさどった絵師の相阿弥、二群七番石にその名を刻む山水河原者の小太郎と清二郎(または彦二郎)、画僧の雪舟を師とした子建寿寅、僧の鉄船宗煕、茶人の金森宗和、同じく小堀遠州などの諸説がある。

 作者が細川勝元あるいは義天玄詔だとすると、つくられた時期は室町中期(1450年)に絞られるが、金森宗和や小堀遠州だとすると、つくられた時期は一気に江戸初期(1600年代)にまで広がる。しかしいずれも確証を欠くために、今なお「作者」と「時期」は不明である。

 これは龍安寺が3度の大火に遭い、創建当時の設計資料やその後の改築資料が焼失して、残されていないためだ。今後も決定的な資料が発見されて具体的に裏付けられない限り、作者や時期が解明されることはない。