9月20日以降

 2つのシナリオがまず考えられる。ひとつは17日間のスポーツの祭典が東京で行われるというシナリオ。もうひとつは、東京ではないというシナリオ。

 第一のシナリオに対してはどうしたらよいだろうか。私はまず新しいプログラム作りを提案したい。そしてその新しいプログラムは次の2つの目的を充足するものでありたい。第一に、50年後の東京のこの地域にふさわしいスケールと内容を持った施設、第二に17日間の祭典を充分満足する機能を持った施設であることが求められる。まず第二の祭典には8万人収容の規模を持つことが最近の一つの標準であるならば、それは満足する必要があるが、同じ規模のものが恒久的にそこに居座る必要はない。むしろこの狭小な敷地と地域の特性を考えた時には、今より大きくない方がよい。そのためには恒久施設は5.5万人を収容し、仮設のスタンドで2.5万人収容すればよいのではないか。当然全天候式ではなくなる。しかし北京の「鳥の巣」も設計の途中でオープンスタンドに変更されている。ロンドンの場合、当初から本設2.5 万人、仮設5.5万人のスタンドが提案されていた。したがってこの新しい提案に対するIOCの反対はないであろう。また、使用頻度の低い屋内駐車場は莫大な換気、照明に維持費がかかる。屋内駐車場は最少にとどめ、17日間必要な駐車は周縁の駐車場を貸切にして、そこからホスピタリティサービスを行えばよい。

 先に述べたホスピタリティとスポーツ関連施設もその内容に対し、運営主体の見解が未だ暖昧なだけに、これも徹底的に整理し、50年後も都民に愛され、使用され、維持され得るプログラムにしたい。これらの結果を私の知る識者と相談し、ざっとチェックしてもらった結果、新施設のコストはこれだけでも数百億円あるいはそれ以上の削減が見込まれる。工期も短縮される。管理維持費ももちろん縮小されるだろう。

 それでは建築家は誰がよいだろうか。新しいプログラムを作成し、それをコンペにする時間的余裕がなければ、一つのオプションは、先のコンペの当選者に敬意を表し、ザハ・ハディドと先に述べたロンドンのメイン・アリーナを担当した当地の競技場専門建築事務所の協同によるロンドン・チームが考えられる。ただし私の希望では基本設計当初から、外苑の歴史、環境、法規を熟知した建築家、耐震構造、日本の施工技術に精しい人々からなる日本チームを参加させることがよりよい結果を生むと思う。“お上がルールだ”と先に述べたが、“私がルールだ”という建築家が昨今増えているからである。

 それでは第二のシナリオの場合はどうなのだろうか。その時は第一のシナリオにあった2番目の条件は消えて、1番目の条件だけが残る。そしてそのオプションの幅は現状維持も含めてかなり広いものになるだろう。よい結論に到達するためにはよりオープンな、透明性のあるかたちで様々な意見が交換されていくことが望ましい。

 最後に、私は今まで述べたどのシナリオになろうと、少なくとも絵画館前の広場を大正15年に完成した当時のデザインに戻すことを強く提案したい。先に触れた西側の建物を除去し、もしも駐車場が必要とあれば地下駐車場を設ければよい。大正12年(1923年)の関東大震災では7万人余の尊い人命が失われた。その頃造営に着手していたこの絵画館と前庭の計画は、その3年後に完成する。私は冒頭「歴史的遺産として貴重」という言葉を引用したが、更にここの歴史を振り返る時、それは大震災で亡くなった人々に対する鎮魂のみちにも見えてくる。

 それが平成の都民が未来の都民に対して、また大正の市民に対するささやかな贈り物なのではないだろうか。

〈追記〉昨年『新建築(*2)』に掲載された私の「漂うモダニズム」の中で、建築が建築家の手を離れたあとの建築の社会性、社会的価値について述べた。今回のエッセイは新国立競技場案を具体的な例として取り上げ、その社会性のあり方を考察している。

(ここまでの文:槇文彦)

注*2 『新建築』2012年9月号