槇氏の問題提起を全文掲載
特別寄稿
新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える
槇 文彦
(以下、図番以外は原文のまま)
誰もが人生の中で様々な出会いを持つ。或るものの出会いは強く印象に残り、他は忘却の彼方に消え去っていく。建築家の私も建築にかかわった中だけでも、様々な出会いに遭遇してきた。場所、建物、人、そして建築にまつわる事件……それらの多くは極めて離れた空間と時間の中の出来事であり、それぞれが私の記憶の室(むろ)に収められている。しかし、何か一つの出来事が起きた時、それまで一見関係がなかったような記憶が室から引き出され、お互いに関連した一つの思考の世界を形づくっていく。
最近、新国立競技場案がメディアに発表され、そのイメージを見た時に私の遠い場所と過去の出会いも含めて様々な出会いが鮮明に浮かび上がってきた。
東京体育館の設計
今からほぼ30年前の1984年、我々はプロポーザルによって東京体育館の設計者に選ばれ、その作業を開始していた。この地区は(図1)に示されるように風致地区に指定された地域の中にあった。ここは東京でも風致地区の第一号であったが、何故第一号であったかは次の外苑の歴史の中で少し詳しく述べることにする。
この風致地区でもある代々木公園では、原則として建物の総建蔽率は2%を超えてはならない。この同じ4.5haの場所には既に1952年、第1回アジア大会の会場として、室内体育館と水泳場が建設されていた。スタジアム通りの諸スポーツ施設も含めて、2%の建蔽率は既に超法規的に緩和されていたのである。
しかし、新東京体育館の設計に与えられた条件は、既存の施設の建蔽率、そしてその最大高さ28mを超えるものであってはならないということであった。一方新体育館は、旧体育館の観客席4,000に対し2倍の8,000席が要求され、様々な諸施設の総床面積もまた、既存施設の2倍であった。こうした厳しい条件の中で、道路面からわずかに上がった人工地盤の下にはこの施設の半分に近いボリュームが収められている。敷地の南側と東側の既存街並みに圧迫感を与えないよう、建物のボリュームは極力抑えている。そして最もボリュームの大きいメイン・アリーナは周縁道路に接する敷地の西北部に寄せて配置している。しかし北側に隣接する新宿御苑のこの部分に最も接したところから見た時、御苑の樹間から体育館の一部は見えても、樹木を越えてアリーナの屋根が見えてくることはない(図2)。
また体育館はここを訪れる人々だけでなく、敷地の東に展開する現国立競技場も含めて隣接する地区への近道を提供している。時にこの近くを訪れた時に、人の流れを見ていると、アリーナの曲面の壁に沿って歩いている人達の動きも自然であり、その向かいにある小さなカフェも結構賑わっている。完成後、23年を経た今日、そのデザインのすべてが自慢したり褒められるものではないが、メイン・アリーナが使用されていない時でも広場では親子がキャッチボールをしていたり、そこには穏やかな風景が展開している。