「日本の大学は君に合わない」
僕は受験という枠組みを越えて、建築とは何か、建築をめぐる思想にどんなものがあるかを生徒たちに教えるようにしていた。開館間もない群馬県立美術館にも連れて行った。この美術館の意味や見所、「なぜマニエラなのか」といった僕なりの解釈を語った。後に磯崎新さんの事務所に勤めたのは、そのときのことが頭の片隅に蓄積していたのだと思う。
あるとき、私の部屋に生徒何人かで遊びに来た。そのとき彼は、私の本棚で雑誌「A+U」の「ホワイト&グレー」の特集号を見つけた。それを見て、「ホワイト」派のジョン・ヘイダックやピーター・アイゼンマンに、自分が進むべき建築への道を確信したように思われた。以後、彼はアメリカで建築を学ぶことを真剣に考えるようになった。
美大・芸大の建築科受験には、自分の得意なものだけで勝負する仕組みがなかった。学科試験の後に実技試験を行い、オールラウンダーを採用する入試だった。僕は坂君に「総合力を求める日本の大学は君に合わない」と言った。
高校3年生の後半、大学の願書を出す時期が近づいたころ、彼が「アメリカに行きたい」と相談してきた。私は「やるべきことが二つある」と言った。ひとつはこれまでの作品をポートフォリオにすること。課題を英文表記し、外国人の自分に関心を持ってもらうツールをつくることが大事だ、と助言した。
もうひとつのやるべきことは両親に納得してもらうこと。彼が「親を説得してください」と言うので、坂君の両親に会った。「彼は粗削りだけれど才能を持っている。このまま日本の大学に入っても先は見えている」と両親に話した。
僕たちの内輪の解釈でいうと、私との出会いによってアメリカに行く助走がついたのではないか。彼がもし日本の大学に進んでいたら、今とは全く違う建築をつくっていたことは間違いない。 (談)
プロジェクトプランナー
※2013年3月4日発刊の書籍「NA建築家シリーズ07 坂茂」から転載