井上雄彦氏がアントニ・ガウディの足跡を巡って描いたデッサンなどを掲載した書籍+DVD「pepita」が発売中だ。DVDの中には、井上氏が自らiPhoneで撮影した植物の写真とエッセイを組み合わせた実験的な作品も収録されている。井上氏が描いた「枯葉」のドローイングと合わせて、ガウディとの“出会い”によって変わったという井上氏の「植物の見方」を紹介する。(ケンプラッツ)
僕はもともとそのへんにある植物に目がいく方だったとは思う。誰に比べてということもないが何となく。
歩いてて目に触れるありふれた葉っぱの、その完璧さ力強さにしばし感じ入る。枯れても虫に食われても、損なわれない美しさがある。
ただガウディの作品、考え方、見方に触れて変わったことがあるとすればそれは、草木の美しさだけでなくその仕組み、構造、理屈といったことに思いが向かうようになったことか。こういう風に生えている(例えば、螺旋状に葉っぱがついていたり)。だから美しく、かつしなやかで強いのかと。
漫画の描きかたの話をすれば、僕は物語を既存の方程式やパターンにはめ込むのがずっと嫌だった。だった、じゃない、だ、だ。絵柄が固定して変化しなくなってしまうのも嫌だ。
だが、誰かが吹聴して手垢のついた方程式じゃなく、自分でそれを見つけ出したとしたらどうだろう。誰かがつくったものでなければ、見つけるもとは自然の中にある法則、自分の体の中にある理。これまで型にはめることを忌避するあまり、本来従うべき法則性などにあえて背いていることもあるかもしれないし、そのため不必要に疲弊してしまう傾向はあるんじゃないか?
だとしたらその法則を我がものにし、自分のつくるものの土台に生かす作業は、決して退屈な型にはめ込む作業ではないどころか、やればやるほど新たな発見があり、無限の広がりがあって、わくわくし通しの作業になりはしないか。うーむ、これからの一つの課題かも知れない。
幼い頃のガウディ(トネットと呼ばれていた。アントニ(オ)という名の人は幼少時たいていそうらしい)は、その辺の草木や動物や虫をながめ、はじめはただただ面白がって見続けたと思う。そのうちその構造上の理に気がついて、踊るような興奮と創造主への畏怖の念とを感じ、さらには、自分自身もまたゆるされてここにいる、完璧さの中にいだかれている至福を感じたのではないだろうか。
幼少時はリュウマチで病弱であったという。杖がなければ歩けない日々でも、つかの間そんな瞬間には、誰の頭上にも等しく太陽の光は注がれていると信じられたにちがいない。それがトネットの生きる力、逆境にも負けない力をくれる、自分だけの真実だった。そんな風に思った。
漫画家