井上雄彦氏がアントニ・ガウディの人間像に迫った書籍+DVD「pepita」が発売された。書籍の中には「樹とカサ・ミラ」をテーマにした、エッセイ付きのドローイングも掲載している。ガウディと“出会う”ことで井上氏がつかむことができた「建築の意義」のひとつを紹介したい。(ケンプラッツ)
カサミラの曲がりくねった庇を歩道から見上げていた。ぼけーっと何分くらいだったかな。見上げていた。そのうちにそこにいる自分と、普段の、家の近所で樹を見上げている自分とぴたっと重なった。
長い年月そこにあれば当然人はその一種異様な建物にも慣れる。そこを毎日の通勤ルートにしている人、近所の人にとっては、その辺の街路樹や草花と同じように、そこにあって当然のものになる。気にも留めなくなる。
僕は一時期何かを見失っていて、(その話は長いので略)、その後その何かを取り戻したとき、仕事場の近くに生えている一本の樹を見て、こんなところに樹があったっけ?と素で思ったことがあった。というよりは、突然その樹の力強さ、美しさが実体を持って僕に迫ってきて、僕がそれに気を留めたことをもって、 その失った何かを取り戻していることに気づいたのだった。
太さから推定するに樹齢10年や20年は経っているから、もちろんずっと以前から見ているはずの樹。
FCバルセロナがどんなに華麗なサッカーをしようとも、彼の地に住んでいる人にもうまくいかないとき、心にふたをされているようなときはあるだろう。
彼らにとってのいつもの道を歩いていて、ふと見上げたカサミラの曲がりくねった庇。そこに秘められているものに思いを馳せる。どうしてこうなっているんだろう。どうやってつくったんだろう。材料は何だろう。どんな人がつくったんだろう。 しばし不幸な自分を棚上げして、思いを馳せる。
樹を見上げ、自然の設計のおおもとにある「理」に触れると、「何てよくできてるんだろう。つくづく、つくづく、つくづく(以下永遠に続くので略)よくできているなあ!」と感嘆するしかない。ぐっちゃぐちゃに生えてるように見えるその枝の一本一本、葉の一枚一枚はそれぞれにそこに生えている必然があって、お互いを邪魔せず生かしている。
大木のうちの一枚の葉であることのちっぽけさと、それだけで完成している偉大さに自分を重ね合わせ、謙虚さと自己肯定感との両方を新たにする。
樹を見上げるとはそんな体験なのかもしれない。
樹は何年経ってもそこにあり、こちらが願えばいつだってそんな体験をさせてくれ、我々は体験し尽くすことはない。
僕は樹を見上げるようにカサミラを見上げていた。
曲線は容易に解明されないストーリーをはらんでいる。
漫画家