アントニ・ガウディの人間像を描くために、漫画家・井上雄彦はガウディゆかりの地を旅した。建設が進むサグラダ・ファミリアでは、ガウディの遺志を継ぐ彫刻家や模型職人たちに取材した。職人とのやりとりを経てつかんだ創造の“種=pepita(ペピータ)”のひとつを井上氏に寄稿してもらった。(ケンプラッツ)
何でだか、職人たちに会うとほっとするのだ。
いや、大学教授とか研究家の先生が苦手だと言っているのでは・・まあそれもあります。いや、つまりは言葉や文化や知識を共有できていないときに、その人の存在自体から受け取る目に見えない情報が、僕の好きな感じだった、ということだ。
以下は僕の印象であり、彼らがそういったわけではない。ただ自分の中には真実が残った。
出会った職人たちには、ことを難しく考え過ぎないシンプルさがあった。そこが印象に残った。この仕事の意味、世の中に与える影響、哲学等、考えはあるのかもしれないがそこにはまり込んだりはしていない。そもそも言葉になっていない。
全体のうちの一部分であり、それを全うすること。それでいっさい過不足はないという姿勢。
あれこれ何にでもなろうとしていない。自分であること。
自分であるとは、全体のうちの一部分たる自分の、その全部を全うすること。与えられた役割を全うすること。
ガウディから与えられた役割。
それはきっと神から与えられた役割。
「この仕事の意味」とかを考える必要はさしあたってないってことだ。 人間の領分を超えて鳥瞰的に自分の価値など規定しようと思わなくていい。
この世の重要な何者かになりたくてそんなことを考えるのだろう。そりゃそうだ。でもそんな何者かなどない。何者かでない、もない。どんな仕事も営みも全体の一部で、その一部たる自分を全うすることにおいて違いはない。
全うすることは何も一生費やすこととも限らないし、全体はきっと変わり続けるものだろう。
そういえば・・、居酒屋とか古着屋で働いていた18歳~20歳の頃、その時にはもう漫画家になると決めていたけど、その仕事は好きだった。面白かった。将来の漫画のためには役立つのかどうか不明でも、その瞬間は100%居酒屋の兄ちゃんであり古着屋の若僧だった。それでよかったのだ。
ただ全うする。没頭する。楽しむ。シンプルに、好きなことに打ち込むことで十分。目の前の仕事に自分を捧げる。自分の持ち場で全力を尽くす。そこまででいいんじゃないか。
その先はなるようになる。そうできているんだろう。
漫画家