人間を描写することでは当代随一との呼び声も高い漫画家・井上雄彦が、絵の表現をさらに深化させるためにバルセロナに旅立った。範を求めたのは、サグラダ・ファミリアに代表される作品で世に知られる建築家・アントニ・ガウディだ。ガウディに惹かれたわけを井上氏に寄稿してもらった。(ケンプラッツ)


iPadで描いたアントニ・ガウディ(絵:井上雄彦)
iPadで描いたアントニ・ガウディ(絵:井上雄彦)

 ガウディに関する自分の知識は日本人の平均以上ということはなかったろう。バルセロナに行き、たくさん見聞きしてきた今も、実際のところそうは変わらない。僕は建築ど素人の一漫画家で、その世界への興味はなかった。

 依頼を受けたのはいつだったかな。なぜ、何に惹かれてこの仕事を引き受けたのだったかな。

 こんな、最初の動機を〆切も迫ってきた今頃になって思い起こしているのは、いまいち気持ちが乗ってこないからなのか?

 いや違う、その質問はインタビューで必ず聞かれるだろうことだからだ。

 いやそうではなくて、僕の中のガウディ像がまだ、遠い異国の大人物の域にとどまっていて、人としての手触りを持つには今一歩ということなのかもしれない。

 まず、この仕事のどこに魅力を感じたのか。

 たぶん建築物そのものよりも、あの建物(生き物?)をつくるにいたったガウディという人に対する興味があったのは間違いない。

 その人が、動植物などの自然にモチーフを求めているところ。

 その人が、自然を秩序立て、形作るもとになる「理」を見出して最大限の敬意を抱き、それを自分のつくるものの中心に息づかせているように思われ、それが判明してくるに従って、無知な僕はおおおと底知れない感動が湧いてくるんですが、そんなところ。

 抽象的な言い方だが、 僕は漫画をつくることにおいて、ある「枠」をなくしたいと思っている。世間の大部分が思っている「漫画」ってどんなものだろうか。それがおそらく枠の一つ。漫画家やその世界の住人の大部分が自ら無意識に定義している「漫画」とは。それが枠の一つ。多くの人に届けるための約束事、流行、記号。自分の今日以前の作品に設けられ、今の自分にも投影される枠。

 漫画であれ何であれ、固く丈夫な枠に覆われて、守られているけどその中で完結しているように見えるものより、その枠を飛び越えようとするものに興味が行くようになった。といっても安易にはみ出すことを売りにしてはしゃぐようなものでなく、何か内側からの必然があって、そうせざるを得ないようなもの。

 卵の殻は時期が来たら破られなければならない。殻を破られない卵の中身は死んでいる。

サグラダ・ファミリア(写真:川口忠信)
サグラダ・ファミリア(写真:川口忠信)