12月8日に発売となった書籍「旅行が楽しくなる 日本遺産巡礼 東日本30選」では、12月20日に開業100周年を迎えた東京駅の丸の内駅舎(赤レンガ駅舎)について、「人に話したくなる10のトリビア」を掲載した。発売記念として、この記事に「東京駅100年の記憶」(東京ステーションギャラリーで2015年3月1日まで開催中)の展示風景を加えつつ、前後編に分けて紹介する。今回はその後編だ。 (以下、文章、イラストとも宮沢洋)


 東京駅が12月20日に開業100周年を迎えた。「100周年記念Suica(スイカ)」が発売中止になった騒ぎを見て、初めて開業100年であったことを知った人も多いかもしれない。

 赤レンガ駅舎のドーム内で怒号が飛び交うさまをもし設計者の辰野金吾が見ていたら……。気が短いことで知られた辰野のことである。きっとカンカンに怒りながら、こう言ったに違いない。

 「ドームは東京駅の土俵である。土俵は聖域である。その聖域は、ルールを守ってこそ守られるものである」

赤レンガ駅舎のドーム内(イラスト:宮沢洋)
赤レンガ駅舎のドーム内(イラスト:宮沢洋)

 スイカを転売する目的で並んだ人も少なくなかったようだが、多くは赤レンガ駅舎のことが好きな人たちであったはず。ならば、発売を何回かに分け、並んでいる人たちが赤レンガ駅舎の魅力を味わいながら時を過ごせるような段取りができなかったものか。辰野もそんな100周年を望んだのではないか。報道を見ていて、そんなことを思った。奥行きのない赤レンガ駅舎で大人数を並ばせること自体が無理な話だったのかもしれないが……。

 え? その前に「土俵」とは何かって。そう、それについて説明しよう。

 辰野は大の相撲好きだった。自宅には土俵があり、息子を相撲部屋に入れて相撲取りにならせようともした。息子の辰野隆はさすがにその通りの道には進まず、フランス文学者となり、東京大学仏文科で小林秀雄や三好達治らを育てた。すごい親子だ。

 相撲好きの父・辰野金吾の方は、相撲の聖地、国技館(1906年)も設計している。これは巨大なドーム屋根の建物だったが、残念ながら東京駅が開業した3年後の1917年に、火災で焼失した(その後、再建されるも現存せず)。そんな辰野だから、ドーム屋根の下は神聖な土俵と考えて設計したに違いない。

 ちなみに、建築史家の藤森照信氏は著書「建築探偵の冒険〈東京篇〉」(1986年、筑摩書房)のなかで、東京駅の外観を横綱の土俵入りに見立て、ドーム屋根は大銀杏(おおいちょう、関取のまげ)のようだと書いている。そういわれると確かにそんなふうにも見えてくる。

東京駅の外観(イラスト:宮沢洋)
東京駅の外観(イラスト:宮沢洋)