トリビア1:キーストーンは「秀吉の兜」

 では、トリビア1から──。

 8つあるアーチのキーストーンの装飾は、豊臣秀吉の兜をモチーフにしたもの。

キーストーンの装飾(イラスト:宮沢洋)
キーストーンの装飾(イラスト:宮沢洋)

 キーストーンとは、アーチの最上部に最後にはめ込んで、アーチを構造的に固める石のこと。西洋建築では装飾の要ともなる。

 8つのキーストーンには、同じ装飾が付いている。ぼんやり見ていると、何かの葉っぱにしか見えないが、これは豊臣秀吉の兜(かぶと)であるという。秀吉の兜のなかでも特に有名な「馬藺後立兜(ばりんうしろだてかぶと)」だ。馬藺とはアヤメ科の植物のことなので、葉っぱに見えたのは間違ってはいないのだが、秀吉の兜と聞くとなんだか感慨深い。

 でも待てよ。明治維新後になぜ豊臣秀吉? これには設計者である辰野金吾のプロフィルを知る必要がある。

辰野金吾(イラスト:宮沢洋)
辰野金吾(イラスト:宮沢洋)

 辰野は佐賀県の唐津出身。武士の家系だ。辰野と同じく工部大学校造家学科(現在の東京大学建築学科)第1期生である曾禰(そね)達蔵も唐津出身だが、曾禰の家が上級武士だったのに対し、辰野家は下級武士だった。

 辰野は工部大学校で、級友たちも驚愕するほど猛勉強した。結果、首席で卒業し、英国へと留学。帰国後は帝国大学の教職に就いた。造家学会(後の日本建築学会)の会長も長く務め、アカデミーの世界を基盤として、黎明期の日本建築界のリーダーとして君臨した。短いプロフィルのなかにも、負けん気の強さがにじみ出すようだ。

 辰野が当時の建築界でいかにあがめられる存在であったかは、下の絵を見ても想像がつくだろう。

「東京駅100年の記憶」の冒頭で展示されている「辰野金吾博士 作品集成図絵」(辰野家蔵)。辰野の弟子の建築家、後藤慶二が辰野の還暦祝いに描いた絵で、辰野設計による45点の絵を一堂に集めた。中央右の白い建物は、辰野の地位を築くきっかけとなった日本銀行本店(写真:日経アーキテクチュア)
「東京駅100年の記憶」の冒頭で展示されている「辰野金吾博士 作品集成図絵」(辰野家蔵)。辰野の弟子の建築家、後藤慶二が辰野の還暦祝いに描いた絵で、辰野設計による45点の絵を一堂に集めた。中央右の白い建物は、辰野の地位を築くきっかけとなった日本銀行本店(写真:日経アーキテクチュア)

東京駅は右上に描かれている。その左にある大きなドーム屋根は、辰野が設計した両国国技館。現存せず(写真:日経アーキテクチュア)
東京駅は右上に描かれている。その左にある大きなドーム屋根は、辰野が設計した両国国技館。現存せず(写真:日経アーキテクチュア)

 で、なぜ秀吉なのか。

 辰野の郷里である唐津藩は、豊臣秀吉に仕え、秀吉の朝鮮出兵の際にも後ろ盾となった。また、明治維新は反徳川派による革命でもあり、そういう意味では、徳川に滅ぼされた豊臣秀吉という存在は明治政府にとっては親和性がある──。そんな理由から秀吉の兜が使われたのではないか、というのはあくまで後の人々の推測ではある。が、そんな視点で各部を見てみることは、この建物が単なる洋風デザインの引用ではないことを知るきっかけとなるだろう。