1976年4月に創刊した日経アーキテクチュアがついに1000号を発刊した。ケンプラッツの歴史はその3分の1に過ぎないが、これを契機に、“年月を積み重ねる”ことに着目したシリーズ記事を開始する。建築界の大御所たちの“生き様”を電子媒体上に記録していく「建築家の年輪」だ。これから高齢世代に突入する読者はもちろん、若手読者にも問題意識を共有してもらいたいと考えている。連載に当たってインタビューの着眼点を、聞き手を務めるプロジェクトプランナーの真壁智治氏に寄稿してもらった。(ケンプラッツ)

 団塊世代が65歳(法定高齢者)に達し、日本の社会は一気に高齢化が実感できるようになった。

 65歳は、一般的に人生の大きな一つの区切りとして捉えられている。高齢者の第2の人生の過ごし方にも多くの関心が向いている。完全リタイアして年金暮らしに入る人もいれば、もう一旗揚げたい、と目論む人もいるだろう。いずれにしても第2の人生も極めて長い。

 当然、建築界も高齢化は逃れられないが、おいそれと建築家は「建築」という土俵を降りて、楽隠居を決めこむわけにもいかない。いまさらながら、建築家の歳の重ね方を吟味してもよい頃合いではないだろうかと私は思う。

 永らく「建築家は50歳から」(村野藤吾)が建築家の歳の重ね方の一つの指標となってきた。底光りする建築を生み出せるのは、それなりの年期と場数を体験した50歳からである、という建築修得・修練の厳しさを戒めるものとしてそれはあった。

 世間的には50歳は定年を目の前にした時期に当たるが、建築家はそこからが本当の勝負で、30歳、40歳は小僧っ子という歳の重ね方に対する理解がある。ここには世間とは異なる固有な建築家の加齢観があったといえよう。底光りする作品をつくるならば、とにかく建築家は50歳までの修業期が過ぎたら長生きしなければならないわけだし、建築家としての持続可能性を探らなければならない。

 これまで、おおよそ建築家の加齢化のモデルイメージとは、このような漠然としたものではなかっただろうか。ここで問題にしたいのは、このような建築家の加齢観が今日の高齢社会の現実に対して、はたして有効なのか?特に70歳から先の歳の重ね方が判然としないのではないか?つまりは加齢化に対するイメージがあまりにも建築家は鷹揚すぎる、貧困すぎる、さらには楽天的すぎはしないか、ということなのだ。

 今ここで、もっとも入用なのは建築家の加齢観を社会の現実との裡で、より柔軟なものに変えていくことではないだろうか。そのことにより、老境にある建築家の社会との関わりの汎用性も見えてくるのではあるまいか。

 この連載では、建築家の加齢化の目安として、先程の50歳から70歳辺りまでの建築家としての壮年期、熟年期と、その先の70歳以上の老年期、さらには晩年期とを自覚的に分けて考えてみることにする。そうすれば、建築家の老いのモデルも、もっと多様なものとして示すことができるようになると思うからだ。併せて、こうした建築家の歳の重ね方を吟味していくことで、老年期や晩年期にある建築家の新たな「生き方」の域を見つけ出す契機としたいと考えている。

日本の高齢化率の推移
日本の高齢化率の推移