妹島和世氏の「ゼロから始める」設計のやり方に多くを学んだ妹島事務所時代、個人住宅の設計を受けたのをきっかけに、独立を決意した。西沢立衛建築設計事務所と、妹島氏とのパートナー事務所「SANAA(サナア)」。二足のわらじで活躍する今も、妹島氏と出会った学生時代から何も変わらずにやっていると語る。
――妹島和世さんと一緒に仕事をしてきて転機になった局面はありますか。
西沢 妹島さんは、寝る時間がないくらい限界までやって、体力が尽きたところが初めて終わり、という感じの人なんです。なので、少なくとも僕の場合は、妹島さんと出会った学生時代から、そのまま何も変わらずに地続きでやってきた感じがします。転機と感じる瞬間は、今まで一度もないですね。
――1995年に西沢さんご自身の事務所を開いたのはなぜですか。
西沢 もともと独立するつもりで就職したという面はあったと思います。でも、当時は忙しかったし、それでも楽しかったから、その日常の中で「そろそろ独立しよう」という風にはあまり考えてはいませんでした。
1995年か96年ごろ、妹島さんと妹島さんのお母さんが、仕事を紹介してくださったんです。それが、西沢立衛建築設計事務所として最初に設計することになった「ウィークエンドハウス」(98年)という週末住宅です。年齢でいうと29歳くらいだったと思います。設計を個人でやるからには、妹島事務所の西沢という名前で、片手間でやるのはよくない、「西沢事務所の西沢」としてやるべきではないかと思ったんです。それが西沢事務所をつくろうと考えたきっかけです。もしこのプロジェクトがなかったら、独立はもっと先になっていたと思います。
西沢事務所は、妹島事務所の机を一つ借りて始めました。そのころから、妹島さんと共同でコンペに取り組み始めました。僕の独立話と並行して、妹島さんと共同設計するという話が出てきたのです。実はそのような話はもっと前にもありました。
91年だったと思いますが、僕が妹島事務所で担当したプロジェクトに「那須野が原ハーモニーホール」のコンペがあります。そのコンペが最終候補まで残っていて、妹島さんも僕も自信満々でした。勝ったら共同設計にしようかと妹島さんは言っていたんです。
でも結局は負けてしまって、共同設計の話は何となくそのままになり、それからは忙しい日常の日々に巻き込まれていきました。僕が独立すると言い出したころに「シドニー現代美術館新館」のコンペがあったたこともあり、共同名でやってみようという話に再度なったんです。
――共同名ということは対等な立場で設計に取り組むということですね。
西沢 そうなんですが当時は、まだ組織がしっかりしているわけではなかったので、深く決めずにやっていました。何となくコンペを一緒にやろうという感じです。他方では、やはり妹島さんとパートナーシップを組むということにはある種の決断も必要で、それなりに悩みました。何を考えたのか突然、小嶋一浩さん(東京理科大学教授)に相談したこともあります。小嶋さんはいろいろ具体的にアドバイスしてくださいました。基本的にはやるべきではないかと背中を押してくださって、ずいぶん勇気付けられました。
その後、「SANAA(サナア)」という会社を正式に設立しました。オランダの劇場「スタッドシアター・アルメラ」(2006年)や「金沢21世紀美術館」(04年)のコンペをやっていた1997年ごろのことだったと思います。