隈研吾氏の設計で1991年に完成した「M2」は、ポストモダンのデザインとして話題になった。しかし、バブル経済が弾けて、その後10年間は我慢の時代が続いた。地方での経験を積み重ね、2000年には代表作の一つである「那珂川町馬頭広重美術館」が生まれた。

――完成当時にポストモダンのデザインとして注目された東京・砧の「M2」(1991年完成)の設計は、どういう経緯で受注されたのですか。
 米国から帰国直後の86年に『10宅論』を出版しました。その本を読んだ博報堂の人から、「面白かったから一緒に仕事をしよう」と打診いただいた。その人は今も友人ですが、実作を見たわけでもなく、本を読んで仕事をやろうとは勇気がある人だなと思いました。そして、マツダの子会社の本社ビルであるM2のコンペに出したら当選してしまった。

――巨大なイオニア式の円柱を真ん中にすえたM2の設計には、どういう気持ちで臨まれたのですか。
 この建物もある意味、反骨精神を持って設計しました。建築デザインの流れは、安藤忠雄さんのコンクリート打ち放しがあって、その後、伊東豊雄さんなどのパンチングメタルを使った軽い建築が出てきて、デザインの傾向がそちらに流れているころでした。一方では日建設計や日本設計がやっている通向きの建築があり、「俺はどれでもないぞ、俺は俺」という思いでした。
 自分は、観念的な建築ではなく、リアリスティックな建築をつくりたいと思ったのです。リアルとは、東京のカオス(混とん)が建築になったものだと考え、M2をデザインしました。自分でも、事務所を始めて数年でよくあんなに大胆なデザインをする勇気があったなと思います。コンクリートに縛られなければ、もっとリアルなものが設計できたとも感じます。

――その後、バブル経済が弾けて状況が一変しましたね。
 91年にM2が完成後、仕事がばったり途絶えてしまいました。東京での仕事がない10年の空白の時代が続きました。バブル経済が弾け、建築界でのM2の評判も芳しくなかった。自分にとって2つの大きな失意があったのですが、そのときに救い出してくれたのが、高知県の「梼原(ゆすはら)町地域交流施設」と愛媛県の「亀老山(きろうさん)展望台」(ともに94年完成)という地方の小さな仕事でした。
 梼原は、梼原座という木造の芝居小屋があって、その芝居小屋が取り壊されるという話が持ち上がり、「これはいい建築なので壊さないように町長を説得してほしい」と高知の友人に乞われ、現地に赴いた。そのとき町長と知り合いになり、依頼された仕事です。亀老山については西瀬戸自動車道が新しく通る町で、町おこしの施設として設計してほしいと町長から依頼を受けました。町長は山の上にモニュメントをつくってほしいと要望してきたのですが、建築の存在を消して「見えない建築」として真逆の提案をしました。
 梼原では和紙や竹細工の職人と協働することができ、初めてリアルな仕事を実感できました。亀老山では自分がもともと興味を持っていた自然環境と向き合う仕事に巡り合うことができました。自分にとってはその後の活動の下地となった仕事です。

――2000年には隈さんの代表作の一つである「那珂川町馬頭広重美術館」が完成しています。広重美術館に至るまでに苦労はあったのですか。
 梼原が完成して以降、「水/ガラス」やベネチア・ビエンナーレの日本館といったプロジェクトが続きます。ともに95年に完成したものです。このとき、日比野克彦や千住博らのアーティストと知り合いました。当時、日本を代表するような若手のアーティストたちです。アートは、単にリアルなだけでなく、作品を通して大きな問題提起をするといった表現手法であり、これに刺激を受けました。梼原のような職人との出会い、亀老山のような自然環境との出会い、ベネチアのようなアートとの出会いがうまく融合して、広重美術館を生んだのではないかととらえています。
 周辺との関係の取り方自体が一つのメッセージになる。それはアートそのものだと思うのです。アートでは、周囲の状況を反転しながら自分のメッセージとして伝えます。このやり方を知ったのが自分にとって大きかったですね。

栃木県に2000年完成した「那珂川町馬頭広重美術館」。浮世絵画家である安藤広重の肉筆画などを展示する美術館(写真:三島 叡)
栃木県に2000年完成した「那珂川町馬頭広重美術館」。浮世絵画家である安藤広重の肉筆画などを展示する美術館(写真:三島 叡)

広重美術館の屋根と外壁は、地元の八溝山で取れるスギ材のルーバーで覆った。ルーバーは遠赤外線くん煙熱処理をした後、難燃剤を浸透させて不燃化した。2001年に村野藤吾賞を受賞(写真:三島 叡)
広重美術館の屋根と外壁は、地元の八溝山で取れるスギ材のルーバーで覆った。ルーバーは遠赤外線くん煙熱処理をした後、難燃剤を浸透させて不燃化した。2001年に村野藤吾賞を受賞(写真:三島 叡)

隈 研吾氏(建築家、東京大学教授)
くま・けんご:1954年神奈川県生まれ。1979年東京大学大学院修了。85~86年米国コロンビア大学客員研究員。87年空間研究所設立。90年隈研吾建築都市設計事務所設立。2001~09年慶応義塾大学教授。07~08年米国イリノイ大学客員教授。09年から東京大学教授。97年日本建築学会賞(森舞台/登米町伝統芸能伝承館)、01年村野藤吾賞(那珂川町馬頭広重美術館)、02年スピリット・オブ・ネイチャー国際木の建築賞(一連の木の建築に対して)など受賞多数
(写真:柳生 貴也)