隈研吾氏は、独立前に米国の社会を体験しようとコロンビア大学に留学した。著名建築家との対談集を企画し、シーザー・ペリ氏に会った際、有名なのに偉ぶったところがない態度に痛く感動。当時の恩返しにと、今は若い人が望めば、インタビューに応じるよう努力している。

――戸田建設を辞めて設計事務所を構える前に、なぜ米国のコロンビア大学に客員研究員として留学したのですか。
 大学院時代に、いわゆる文化人類学的な体験もしたし、日本の社会も少なからず見ることができました。経験していないのは米国の社会でした。米国の社会が20世紀にはすごく重要な役割を果たしており、その社会を一度体験したいという思いがずっとあったのです。幸運にもニューヨークのコロンビア大学に客員研究員として留学する機会に恵まれました。

――コロンビア大学ではどんな研究をしたのですか。
 米国の大学の客員研究員はかなり自由で、「自分が好きな研究をしていいよ」と言われ、『10宅論』(1986年、トーソー出版 90年、ちくま文庫/筑摩書房)と『グッドバイ・ポストモダン』(89年、鹿島出版会)という2冊の本を書きました。前者は留学中に書き上げ、後者は対談集なので、対談を留学中に終わらせました。対談集をつくるのが目的ではなく、米国の建築家になるべく多く会って、生の話を聞くのが目的です。話を聞くだけだと会ってもらえないので、「対談集を出版します」と言って時間をつくってもらいました。
 ACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)から奨学金をもらったのですが、ACCはロックフェラー財団に関係しているので、同財団の紹介でフィリップ・ジョンソンやシーザー・ペリなどの著名建築家に会ってもらうことができました。
 今、考えると怖いもの知らずだったと思います。学生に毛が生えたような若者がテープレコーダーを片手にやってきて、「あなたの建築は、ここが問題ではないのですか」と面と向かって話すわけです。今思えば「本当に、よく言うよ」という感じですね(笑)。

――対談で思い出に残っているのはどんなことですか。
 シーザー・ペリと話しているとき、テープレコーダーが回らなくなってしまいました。すると、どうして回らなくなったのだろうと、一緒に電池を入れ替えたり、操作をしたりして、一生懸命に考えてくれました。有名なのに、偉そうなところが全くない。こんなに優しい人なのかと感動しました。そのとき、建築家にとって「偉ぶらない」姿勢が、すごく相手を感動させるのだと気付きました。
 だから、若い人たちが僕にインタビューしに来たいという場合、夜中でも時間を割いて、なるべく会うようにしています。それは、僕が若いころ、著名な建築家の人たちが時間をたっぷり使って会ってくれたことに恩返しをしたいと考えているからです。

――留学していたのは日本の景気が好転し始めたころですね。
 米国にいた1年間に日本では景気が回復し始め、同級生が皆、設計を始めていました。僕だけ米国でのんびりしているのはどうか、という気持ちもあって、1年間で日本に戻りました。86年に帰ってきてすぐ、第一作として設計したのが「伊豆の風呂小屋」(88年完成)です。高校時代の美術の教師は、「最初の作品というのは意外にいいものが描けるぞ」といつも言っていました。設計しているときにはあまり感じなかったのですが、後になって、彼が言ったことは本当だったのだと思い直しました。今でもまさに自分の原点となる作品だと感じています。

隈 研吾氏(建築家、東京大学教授)
くま・けんご:1954年神奈川県生まれ。1979年東京大学大学院修了。85~86年米国コロンビア大学客員研究員。87年空間研究所設立。90年隈研吾建築都市設計事務所設立。2001~09年慶応義塾大学教授。07~08年米国イリノイ大学客員教授。09年から東京大学教授。97年日本建築学会賞(森舞台/登米町伝統芸能伝承館)、01年村野藤吾賞(那珂川町馬頭広重美術館)、02年スピリット・オブ・ネイチャー国際木の建築賞(一連の木の建築に対して)など受賞多数