恩師である吉阪隆正氏の死をきっかけに、菊竹清訓氏の事務所を辞めて独立した内藤氏。建築を一生の仕事として本当にいいのか、迷い続ける日々が30代後半まで続いた。

――菊竹清訓氏の事務所に2年間在籍して独立しましたね。それは予定通りなのでしょうか。
内藤 実はもう少しいるつもりでした。僕にプロジェクトを預けるとうまくいくのが分かったからか、常時4つぐらい仕事を任されていました。ただ、もうちょっと実務に即した勉強をしなくてはと思って菊竹さんにそろそろ辞めたいと切り出すと、「待て」と止められました。
 それならあと半年ぐらい続けようと思ってから3~4カ月たった時、吉阪先生が亡くなったのです。一つの節目かなと思って、それを契機に辞めました。もう少しいてもいいかなとは思いましたが、吉阪先生が亡くなったことは大きかったですね。

――独立してもいいほどの仕事はあったということですね。
内藤 みんな同じだと思いますが、ぎりぎり食べていけるほどの量です。僕は学生時代から、もう1人でやる時代ではないだろうと思っていましたから、それぞれ都市計画とマネジメントが得意な2人と事務所を始めたのです。ただ、方向性の違いなどから僕1人が残ることになって、やむなく今の事務所を始めたというのが実情です。
 その時も、やってみなくては分からないという気分がありました。実際に踏み出してみて、それが男子一生の仕事に足らんと思ったらやめようと思っていたし、本当にこれでいいのかなという気持ちはあった。半年後にやめても全然おかしくないという状況がずっと続きましたよ。


1989年竣工の「海の博物館・収蔵庫」。92年に完成した展示棟とともに日本建築学会賞作品賞を受賞( 写真:車田 保)

――建築家として突き進んでもいいと決心したのは何歳の時でしたか。
内藤 37歳の時です。「海の博物館・収蔵庫」で、構造体だけが立ち上がった時、当時6歳と3歳だった娘を連れて行きました。構造体だけの収蔵庫の中を娘たちがちょこちょこ歩いているのを見て、その時に建築をやってもいいかなと初めて思ったんです。

――娘さんの歩いている姿を見てどういう思いがこみ上げてきたのですか。
内藤 なかなか言葉に直すのは難しいのですが、自分が精いっぱい努力して生み出しているものを、この子らが分かるようになるのに何年ぐらいかかるかなと。20年かかるとしたら、1987年に生み出した価値が20年後に伝わるだろうかと考えたんです。その時、この建物ならば伝わるかもしれない、時間を超えた伝達手段として、建築をやる意味があるかもしれないと思えた。それが転機でした。

――建築に対する姿勢というのは、それまでとは大きく変わりましたか。
内藤 変わったでしょうね。ほかをあきらめたのかもしれないけど。ともかく建築をやろうと考えたことは確かですね。


内藤 廣氏
1950年神奈川県生まれ。76年早稲田大学大学院修士課程修了。フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所、菊竹清訓建築設計事務所を経て81年内藤廣建築設計事務所設立。2001年東京大学大学院工学系研究科社会基盤学助教授、03年同教授。近作は島根県芸術文化センター(05年)、とらや東京ミッドタウン店(07年)、JR日向市駅舎および駅前広場(08年)など(写真:柳生 貴也)