「ソレ、チガウ。アメリカシキ、コヤグミガヨワイ。タダ、ケイザイテキナダケ。イチド、タイヘン、ツヨイチカラカカリマス。スグツブレマス」──。

 これは、『達磨寺とドイツ人』と題する映画脚本からの一節。建築ツウの人であれば、達磨寺、ドイツの二語のみでピンと来るかもしれない。1933年から36年まで日本に滞在し、うち2年3カ月を群馬県高崎市の少林山達磨寺境内「洗心亭」で暮らした建築家。桂離宮をはじめ、日本の伝統美の再発見に貢献した亡命者──ブルーノ・タウト(1880-1938)のことであると。

 これは実は、助監督時代の黒澤明が自身のデビューのために1941年に書き上げたものの、日中戦争のあおりで企画頓挫した脚本。当時の巨匠・伊丹万作が激賞し、この一作のみで「将来は日本映画を背負う大立者になる」と看破したとされる逸品だった。随筆『ブルーノ・タウトの回想』(浦野芳雄)を原作とし、タウトをモデルとするが、黒澤は創作上の改定を行う。主人公ルドウィッヒ・ランゲの滞在を39年から41年の期間に設定し直し、村の人々との心の交流を描いている。

 劇中、風水害で関西の小学校が倒壊し、多数の死者が出たという新聞記事を読んだランゲが地元の小学校に押し掛け、“耐風(震)診断”を始める。医者が患者の脈を見るように、「コノクミカタ、タイヘンヨイ」「コノハシラ、イケマセン!」などと指摘しながら、白墨を手に校舎を点検して回る。冒頭は同場面の台詞。「その絶大な自信の前に、村の青年達はひきずられるように信頼の気持ちを感じはじめた様子である」と表現されるこの中盤の一幕を機に、そして背景にある日独伊三国同盟の調印を機に、寺以外に居場所のなかったドイツ人建築家が周囲からの尊敬を獲得し、“愛される”存在になっていく──。

 最新号(07年4月23日号)の連載「昭和モダン建築巡礼」では、そのタウトを高崎に招いた井上房一郎が建設に尽力し、アントニン・レーモンド(1888-1976)を設計者に推薦したという「群馬音楽センター」(1961)をルポしている。取材から戻ったイラスト担当の本誌・宮沢が感慨深げに語ったのは、地元民による当時の“建設推進運動”の横断幕を収めた写真資料を見つけ、この建築の“愛され方”を知ったという話だった…(連載のイラストでご覧ください!)。

 さて現在、東京で開催中の『ブルーノ・タウト展』(前号「建築掲示板」で紹介)を見ると、タウトが「建築家が理想とする建築家像」を体現していたことがよくわかる。あえて最新号と関連させてみるならば、鉄・ガラスによる美の追求(特集「技術の真価」)、地形に溶け込む建築(同「REview建築」)にはじまり、工芸デザインから公営集合住宅、さらには都市計画にまで関与が及ぶこと(同「追跡 都知事選」)──それら幅広い活動を壮大な宇宙観の中に畳み込んでいる。

 タウト展を、最新号「建築掲示板」で紹介している別のイベント『藤森建築と路上観察』と合わせて鑑賞すると、どちらにも“幻視”というキーワードが刻まれ、両者に少なからずリンクがあることがわかる(「アルプス建築」が、そもそも藤森建築の参照源の一つであることは展示でも示されている。間にアニメ分野のヴィジョナリスト、宮崎駿を置いてみる趣向もありそうだ)。

 巨大指向のメガロマニアに走ると抵抗を受けてしまいそうな現代だが、藤森建築のような格好であれば“幻視”を発揮する手はあるのだ、と遅ればせながら納得した。

 知識人の運命が、時代に翻弄される。そんな『達磨寺とドイツ人』は戦時下に書かれた脚本だが、よく知られる活劇などよりもむしろ、晩年の黒澤作品に通じるところがある。映画が実現していたら、「建築家」の大衆イメージはあるいは変わっていたのだろうか。黒澤監督は43年、『姿三四郎』を手がけてデビューし、立ち見客があふれ扉が閉まらなくなるほど、と後々まで伝えられる熱狂を持って国民に迎え入れられる。

(今回は横道路線でした。「Aの虚像」番外編ということで──連載復活の正編・ぽむ企画版には『ハチクロ』が登場します)