『処刑の部屋』──。いわゆる“太陽族”を描いたこの映画を、学生時代に名画座で観た。監督は市川崑。主演は川口浩と、後に黒川紀章氏の夫人となる若尾文子。もちろん原作は、石原慎太郎・現東京都知事。ほぼ同年齢、若くして世に認められ、そんな映画以上にもろもろ因縁浅からぬはずの黒川氏と石原氏を並列に見る視点は私にはなかった。ので、黒川氏が都知事、という想像を巡らせることはなかった。おそらく民主党も(のはず)。

 最新号(2007年2月26日号)では、その黒川氏と日本設計の共同による国立新美術館を掲載している(「クローズアップ建築」)。

 この美術館のオープン直後に、黒川氏とお話しする機会があった。昨年お願いした講演の際を含め、たびたび言葉にしていたのは、「建築が、日本で文化として認められることを願う」といった趣旨の内容だった。東京都知事選に出馬表明し、公約にも掲げている「経済と文化の共生」だ。この雑誌でも考えていきたいテーマだが、どう切り込めばよいかをうまく見いだせていない。

 黒川氏の言う「共生」とは、単なる併存や共存とは違うし、生ぬるい連帯を意味するものではもちろんない。自然界がそうであるように、“生存と存在証明をかけた闘争”があり、その上で共に生きる道を選ぶ。といった思想が根源にあるはずだ。

 それら命題(やその他)を広めるためには、いささかエキセントリックに振る舞わなければ、いまのメディアは飛びついてこない──。黒川氏の言動に触れた印象では、そんな計算(あるいは諦め)もあるのではないかと感じるが、計算外の“情念”にも従っている節はある。非常にホットな面と非常にクールな面が交互に表れ、真意を図りにくい言葉もいくつかあった(これも共生なのか?)。「夕刊紙」(やそのニュースサイト)での報道のされ方などを見ると、出馬のパフォーマンスでは、それが裏目に出ている面もある(あるいは思うツボなのか?)。

 最新号で「続報 偽造事件」として報じている耐震偽装に関する話題も出た。黒川氏は、それが建つ地域やコミュニティに責任(感)を持たない設計者が、建物(しかも、事件になってきた多くは住居系)を手がけることの問題を指摘していた。いくつかの偽造事件報道に接し、事業者や構造設計者の縦横無尽な仕事ぶり(越境ぶり)から、改めてそうした感想を持った人は少なからずいるかもしれない。

 ただ、近代以降の建築家はそもそも越境する存在だったので、“よそ者”が設計してはいけないということでもない(黒川氏自身、カザフスタンの新首都などを手がけてきたわけで)。これも、「経済と文化の共生」というところから見渡さないとならないのだろうか。

 特集では景観規制を扱った(「形や色はだれが決める」)。必ずしも有効とは思えない規制手法が採用される現状があるが、では、建築や都市をつくる側から“群”を扱う説得力のある解答を十分に示すことができているかというと、そこも弱い。個別には重要な取り組みがあるはずなので、雑誌として、それを探し出したり検証したりしていく必要がまだ残っているとも言える。

 近刊の『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』(NHKブックス)で、著者の東浩紀氏(哲学・表象文化論)と北田暁大氏(理論社会学・メディア史)は、建築雑誌などを取り上げ、いかにいま「都市論が失効しているか」を指摘している。黒川氏が、あるいは磯崎新氏が、さらに安藤忠雄氏が都市にコミットする発言を強めているいまが、議論再燃の好機なのか否かを少し考えてみたい。